2009年08月05日

「異教徒」という言葉のもつ重さ2−−十字軍遠征

 キリスト教がローマ帝国の国教とされ,また,392年には帝国内の異教信仰が禁止されるにいたって,キリスト教はヨーロッパ中に広く普及していった.それとともにローマ教皇の権威は増大し,遂にはカノッサの屈辱(1077年)に象徴されるように,皇帝の権威をも上回るほどになっていった.


 このようなとき,教皇の‘指導力’を見せつけるチャンスが訪れた.それが十字軍遠征計画である:(引用
1.十字軍遠征の背景

●1096年から1291年にアッコンが陥落するまでの間に聖地エルサレムの回復を掲げて十字軍遠征が7回に渡って行われました。7回の十字軍の遠征によって、2200万人が犠牲者になったと推測されています。

●十字軍が行われた直接的な原因としては、セルジューク朝トルコ(1038〜1194年)が小アジアの東ローマ帝国を圧迫し、聖地エルサレムを占拠したことが挙げられます。東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世は、ローマ法皇を介して西ヨーロッパの君主や諸侯に援助を求めました。

●ミラノ大司教の任命権を巡るローマ法皇グレゴリウス7世と神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世との対立に始まる叙任権闘争は、1077年のカノッサの屈辱で法皇の優位性が一応示されましたが、その後も1122年のヴォルムス協定まで尾を引きます。叙任権闘争の渦中にあったウルバヌス2世はクレルモン公会議(1095年)において「あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。ペルシアの住民なるトルコ人がキリスト者を攻撃して多数の住民を殺し、あるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ、神の王国を荒らし回っているのである」「ヨーロッパは貧しく惨めであるが、聖地エルサレムこそ乳と蜜の流れるところ」「この地で不幸な者は彼の地で幸せを得るだろう」「これこそは神の御業であり、神の御業に参加する者には罪が赦されて贖(あがな)いは免除される」と述べました。群集は熱狂し、「神、それを欲し給う(デウス・ロ・ウォルト)」と口々に叫んだと伝えられます。
 十字軍遠征:(引用1
第1回十字軍
1096年〜1099年。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、陵辱、略奪を行いながらエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は一致団結することがなく、敗走するか戦わずして十字軍を通し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国などいくつかの十字軍国家がつくられた。
         (引用2
●第1回十字軍遠征は、1096〜1099年に行われました。ジェノヴァ海軍の支援によって1099年7月にエルサレムを占領した十字軍の騎士たち(騎兵約5000人、歩兵約3万人)は、女性や子供を含む、ユダヤ人やアラブ人の市民約7万人を虐殺し、財宝を略奪しました。ユダヤ人は、シナゴーグ(礼拝堂)にあふれるまで押し込められた上に焼き殺され、ほとんど全滅してしまったといいます。
●十字軍に同行したフランス人聖職者の残した記録によれば、十字軍兵士は、
サラセン人(イスラム教徒)が、生きている間に
そのいやらしい咽喉の中に呑みこんだ金貨を、
腸から取り出そうと、
屍の腹を裂いて調べて回り・・・
同じ目的で屍を山と積み上げ、
これに火をつけて灰になるまで焼き、
もっと簡単に金貨を見つけようとした。
そうです。
●イラク人の残した記録では、
住民は、一週間に渡って市街地を略奪して回るフランク人
(十字軍兵士)によって斬り殺された。
・・・エル=アクサ寺院内では7万人以上の人々が殺された。
・・・また、彼らは岩のドームを空にするほどの
莫大な戦利品を持ち去った。
となっています。
こうした虐殺と略奪の後、ブローニュ伯の次男でロレーヌ公のゴドフロア・ド・ブイヨンに率いられた十字軍の騎士たちは、敬虔なキリスト者としてイエス・キリストの聖墓に赴き、聖地の奪回を創造主である神に感謝しました。彼らは、エルサレム王国を樹立して、大部分が帰国しました。この遠征には、5000人の慰安婦が従軍していたと伝えられます。
●エルサレム王国の樹立を受けて、聖地の守備、キリスト教巡礼者の保護などを目的に結成されたのが宗教騎士団です。テンプル騎士団(1119年創設)、ヨハネ騎士団(1190年創設)、ドイツ騎士団(1190年にシリアの地中海岸アッコンに創設)などの著名なものも含めて、百を超える騎士団が作られました。

3.イスラム教徒

●クルド人で、ファーティマ朝を滅ぼしてスンナ派信仰を回復したアイユーブ朝の国王サラディンは、1187年にハッティンの戦いで十字軍を撃破して、エルサレム王国を滅ぼしました。サラディンは、その際、報復のための虐殺や略奪を兵士たちに許しませんでした。その騎士道精神(?)は、キリスト者からも讃えられました。
 イスラム側の反応:(引用3
 キリスト教側は、すっかりイスラムから自分たちの聖地を取り返そう!と、少なくとも最初はまだ宗教的情熱で進撃します。ところがイスラム教徒側は、「フランク人が攻めてきた!」と考えたようです。フランク人・・・というのは昔フランス南部でイスラム教軍が戦ったフランク王国のことですが、この頃にはヨーロッパ人を指すようになっていたようです。

 つまり、イスラム教側からは宗教VS宗教などとは考えておらず、あくまでヨーロッパから敵がきたから撃退しよう、その程度だったみたいです。そんなわけで、キリスト教側だって中には宗教熱心でなく、教皇の命令で仕方なくきた軍隊もいる。そこで、第6回十字軍のように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、アイユーブ朝エジプトのスルタン・カミール(サラディンの甥)と、外交交渉、つまり「何とかしてくださいよ〜」「う〜ん、仕方ないですなぁ」なんてやって イェルサレムを譲り受ける・・・・なんてことも起こったのです。
 この十字軍の血塗られた忌まわしい実態から目をそらすことはできない.キリスト教だけとはいわないが,異教徒に対してこれほどまでに平気で惨たらしい殺戮ができるものなのか.宗教は叫ぶ.“我が○○教は皆を幸福にします”.だが,こっそり呟くのか?
“信じないものは殺されても仕方ないわな!”.

イスラム教側が宗教戦争と考えなかったのはキリスト教国にとって,幸運であった.もし,イスラムが“ジハード”と叫んで本気でヨーロッパに攻め入っていたら,キリスト教は滅んでいたに違いない.

 次は現代の?十字軍です.

清き one crick please (^^;) メモ of『なっとくの微積・解析』に一票
posted by TaD at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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